HINOMARUを聞いて考えたこと
何故ならかつて日本には、
国を愛し、誇りに思う心=「ナショナリズム」の下戦争を行い、
多くの人間の命・自由な生活が犠牲となった時代があったからです。
そしてHINOMARUで洋次郎が使った表現は、その暗い時代を彷彿とさせるとも捉えることもできます。
私も歌詞だけ読んだ時は正直戸惑ったし、「こうきたかRAD…」と思いました。
私が出会った頃(10年ぐらい前)のRADと今のRADでは、曲の主題も大きく変わりました。
瑞々しい青春から、毒っ気たっぷりの心まで歌える、レンジの大きさは昔からですが、
ここまでセンシティブな内容を扱うのは初めてかなと思います。
私はファンなので、表現者として常に新しいRADWIMPSを見せてくれることは嬉しいし、「やりたいようにやっちゃえよ!」と思います。それでもたぶん聞き続けるので。
世間の批判をうけないで作品を作り続けることなんて、不可能だと思うから。
その反面、聞き手の受け取り方が心配になってきます。
今の10代の子で「右と左」の意味も知らずにこの曲を聴いている子もいるかもしれません。
この曲の歌詞をノートに書き写す前に、何故この曲が波紋を読んでいるのか、少し調べてほしい。背景にあるものや、色々な捉え方があることを知った上で、この曲を聴いた方がいいんじゃないかなあ、と思うのです。
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余談になりますが
私は大学で建築を学んでいて、ジュゼッペ・テラーニというイタリア合理主義の建築家の住宅作品の研究をして卒業しました。
卒論のテーマを決める時期に、偶然手に取った本の中で「戦争に翻弄された建築家」みたいに紹介されていて、なんだかドラマティックじゃん…と思って調べ始めたのがきっかけだったんですが。
WWⅡ前に活躍したテラーニは、いわゆる「右」の人でした。
ムッソリーニ政権下でファシズムのプロパガンダ的作品を多く残しました。
当初はナショナリズム・ファシズムとテラーニの建築思想・表現の関係性について調べたかったのですが、教授に止められて断念しました。
単純に論文にならないと判断されたのかもしれないですが、そういう思想に興味を持つこと自体がタブーのような言われ方もしました。
(私は右はありません。絶対戦争はしたくないし、美化するようなこともしたくない。
国の為に命なんて投げ出せないです。)
建築と音楽は違う!と言われればそこまでなのですが、
卒論の研究を通して、芸術表現とナショナリズム・ファシズムの関係性について知ったこともあり、今回のHINOMARU問題は気になったんですよね…。
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実際HINOMARUを聞いたのは、ライブ会場でした。
洋次郎の声はまっすぐ純粋でした。
「右も左もない」と語ったのは真実だと思います。
ガイシに集まった観客の心に、音楽も歌詞もまっすぐ届いていました。
始め歌詞を読んだ時のような違和感は一切なく、むしろ心地よかったです。
この曲を手放しで「かっこいい」とは言えないですが、
洋次郎が意図した純粋な思いが、少しでも多くの人に響けばいいなと思います。
2018.6.10 kanako
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